感情の忘備録

浪人時に精神病に罹患、二浪を経て、底辺大教育学部で病状悪化、読書感想文や感情を吐露したりしてます。

良心の呵責

 

内容は前回の話と重なるところがあるがそれでも読んでみてほしい

 

先日、地元に帰省してきた女友達と図書館で勉強、というよりはもう僕はパニック発作が出て、結局散歩をしながら雑談や白熱した議論を交わしたのだがたまに彼女の澄んだ瞳で言う「子供が欲しい」という言葉が僕の心に軋轢を生んだ。

 

僕はここで彼女に人生の生きる意味のない証明や人生は無益な受難であり、生誕しないことに勝ることは何もないということを危うく言いそうになった。

しかしここでは言うべきことではない、彼女を絶望に陥れてどうするんだ、仲の良い友人を傷つけてどうするんだ。

それでも真理は醜悪なものもあるが受け止めなければならない

だがこれは僕の一抹の信念で、彼女の生き方はまた違うので価値観の強要はせずに済んだので良かった。本当にでしゃばらなくてよかったと思った。

言いたいことと、言うべきこと、当たり障りのない言葉選び

これが人々の交わりの中で相手を傷つけるか、どうかだと、僕は思う。

彼女は彼女なりに悩みを抱えて1人で暗い部屋で泣いていたりすることもあったらしいがそれでもSNSを見ると元気そうだし、これ以上彼を不幸にさせたくないし、好きだから楽しいことや嬉しいこと、生きる喜びを多く受け取ることを祈る。

それでも人の心配をしている立場ではないのだが。

 

僕は反出生主義でこんな幸より不幸が多い世界、これは少し大げさなので話を狭めるが現代の日本の政治は腐敗している、もっともどの政党も建前だけは立派で硬い文章で書いてあるだけで実際はマニュフェストの実現が出来てないように思えるし、出産するなら昨今話題になった妊婦税というのも問題だろう。

だからこんな腐敗した世界で種の存続をするのは無理がある、何もかもつじつまが合っていない、動物愛護団体も平気な顔をして肉を食っているが屠殺場を見ていないのだからそれは声高に矛盾だらけの中身のない空っぽな主張をするわけだ。そもそも動物の定義は分かっているのか?所詮臭いものには蓋をする臆病者で見栄っ張りのただの偽善者なのだ。

 

そういう世界で、テクノロジーが発達した世界で、もう慣習や風習に従う意味はあるのか、もう安楽死を導入して生きたい人だけが生きればそれでいいのではないか、そう思うのだ。

 

さて、薬も飲んだし明日は私大の入試だしそろそろここで筆を置くことにしよう。