感情の忘備録

浪人時に精神病に罹患、二浪を経て、底辺大教育学部で病状悪化、読書感想文や感情を吐露したりしてます。

何度も繰り返す絶望的な朝

 

「また目覚めてしまったのか」

 

毎朝目覚める度に落胆する、いっそ処方されている強力な睡眠薬でODしてそのまま安楽死したい。

 

しかし安楽死が出来るか分からない、詳細を言うと僕はパニック障害なので種々の抗鬱剤や胃腸薬、そして何よりイソミタールという白い粉末の強力な睡眠薬が出されている。

これは僕が買った自殺マニュアルによると、入手は困難だが強力故に致死量の範囲が低く狭いらしい、今ではこんな薬を出すのはかなり重症か、昔の医者しか出されなかったらしいし、大抵の医者は嫌がるらしい。

 

しかし受験のストレスで今更死ぬなんて馬鹿らしい、だがこの頃やけに希死念慮が脳内にチラつくのだ、「生きる意味がないなら死ねばいい」と。

 

いや、むしろ受験は大きな要因であるか。哀しいかな、生きる意味より死ぬほうが有益に思える時に受験で未来が途絶え、こんないつまで続くか分からない精神病を患い、その時点で一浪した果てにセンター爆死という現状を突き付けられ、友達もそこまで多くない(それでも本当に大切な友達は多いが悩みを共感できるというか、同じ悩みを抱えている人間がいない)ということになっているのである。

 

そして幸か不幸か、僕には愛する人もいなければとても大切と思えるような家族すらいない

 

数年前、僕が中学生だった夏頃、寝起きでリビングから「障碍者だから勝手にスイカ食べたんだろう」と僕のことを母親と長女が話していたのを覚えている(その時は何も病気に罹患していなかったし、この会話には僕の名前が入っていた)

 

どうして生きるのだろう、日々の憂鬱な感情を言葉という特に現代にいたっては語彙力の低下もあり、ちっぽけな言葉でしかこの感情の機微を大まかに言い表すことしか出来ない。人間は無力だ。

語りえないことを語らないことで語りえないことの輪郭は表すことが出来るのか?

 

僕のこの悲劇も他人からしたらただの喜劇でしかないことも哀しい。

自分が可愛いのではなく、本当にそういう構造の世界が哀しいのだ。

 

悲しみを分かち合える人間が僕にはいないし、こんな立場だからいそいそと大学生活という青春を謳歌している人間を僕のくだらない悲劇に加担させるわけにはいかないのだ。

 

そうだ、頓服の抗不安剤でも飲んで気を落ち着けようか。

 

死ぬことが出来ないならば社会に適合しなければ。

薬漬けになってでも社会に適合しなければ。

仮初の衣装でも拾って知らぬ顔で身につければいい。

そうしたらどうにか生きていけるはずだろう、僕も二浪に向けて、気が進まないが勉強しなければならない。

 

神経症のせいかやけに音が気になる、よく盗み聞きをするというがむしろ人が話している内容をそのまま流すことなんてそう易々と出来るものなのだろうか。

今日も自室で見えない怪物と戦って生きるしかない。

 

そうだな、ところで神経症とはなんであるかと言えば今朝の喫煙所の僕の簡単な説明とすれば

 

原爆の被爆者が全身に火傷を負いながら水を必死に求める、いや、この表現では倫理的に問題がある。

 

熱中症患者が無様な姿で水を求めると言い表したら妙であるか。

 

神経症と簡単に言うが実際は結構過酷な病であるのだ、発作時の飲料水の渇望、死を至近距離で意識せざるを得ないというしっかりした病状があるのだから原爆の例えは言い得て妙であろう。

 

こんな世界なんて早く滅んでしまえばいいのにな。