感情の忘備録

浪人時に精神病に罹患、二浪を経て、底辺大教育学部で病状悪化、読書感想文や感情を吐露したりしてます。

 日本人の死生観とは、生前・死後の世界とは? 死生学

 

 以前は夏が終わり、秋が到来することを嫌がっていて、資格試験勉強以外で何もすることがないと思っていたが、不幸中の幸い、否。幸い中の不幸とでも言い表した方が適当か、奨学金が止まり、収入がない中、哲学的な専門書を読むことが楽しみになった。

そこで得た新たな思考が生まれ、その思考がとても面白いものでハマってしまった。

 

浪人最後のセンター直前模試で現代文においては偏差値71.9を出したものの、実際の試験では不幸にも実力を中途半端に発揮してしまい、思うように出来なかったと感じている。

僕は物語(フィクション)よりも評論が好きで浪人時代も三島由紀夫などを愛読していた。とはいえ、国立大文学部人文社会でハイデッガーについて研究したいと思っていたので文学自体は嫌いではない、古典にしろ、近代日本文学にしろ。

ただ世俗的な書籍については嫌気が差す

(例えば成り上がった人間の成功した方法などを記した書籍、これについてはその方法を真似したところで読み手は生存バイアスや著者の育った環境、親の遺伝子などの要因が強く関係することすら気付かず、時間や金の無駄となるし、そもそもそんな本を読む時点で言葉を選ばず言うならば愚者であるからだ。また、大衆受けするようあつらえた陳腐な内容の文学、教養のない人間向けに書いた本来理解するのには難解な哲学の諸現象を簡略化し、恣意的にまとめられたものなど。)

 

自分自身の現状を捉えてみると自殺以外この苦しみから解脱することは出来ない、そもそも死とは何か、数学と同様僕は哲学が好きであったのでセンター試験の社会では倫理を独学で学び、7割程度ではあるが、三島由紀夫も愛読し、さらにその大和魂のような、日本人らしく、個人的に非常に興味がある山本常朝の葉隠が出たりしたときは非常に嬉しかったとともに、西欧の哲学などが大部分を占める中、出題され、形容詞難い誇りを感じていた。その山本常朝も大事にしていた死生観、つまり死に関する事柄に時々、頭によぎる問題でもあった。

(厳密には死生学とはまだ学問としては黎明期であり、生命倫理学、社会学、心理学、医学など横断的分野であり、哲学に包含するといったところではあるが。)

 

「数学が何の役に立つの?」という言葉をたびたび耳にする。(これは明らかに愚問である)また哲学科や哲学を専攻すると就職は?ということもあったがそもそも学問が必ずしも商業に関連するものだとは到底思えない。

 

 

 

読書による感情の描写がかなり長くなったが、本題に入る。

 

伝統的な死生観がある日本人は(神道に限っては)直角三角形のように描かれる。

長辺は成長、進歩、上昇などを表し、その線分の頂点から対辺(いわゆる高さ)は老いを表し、底辺につながると死というイメージである。

 

また、その他の信仰を持つ人々(ユダヤキリスト教など)は円のように描かれる。

始点(誕生)と終点(死去)は一致し、生と死が重なる。

生前も無、死後も無ということである。

 

次に生前・死後の世界について考えるとき、死=無であるならば生=有と言え得るかもしれない。

以下の話は逸脱するがこれがメインのファクターとなる。

アウグスティヌスの「告白」では、天地を創造する前に神は何をしていたか?と質問され、天地を創造してから時間という概念が宇宙に存在すると言ったが創造する前に時間(=創造する前)は存在しなかったのだから無ということになる。

これは宇宙物理学者ホーキング博士の理論とも非常に類似しているとのことである。

 

よって私たちは永遠(無・時間性)に囲まれた中で生きており、やや強引ではあるとは思うが、生前も死後も無となるとのこと。

 

ここからは推論だが、生前も死後も無となるならば永遠における任意の無という点として存在することとなり、また新たな命を受けたならばそれは天地が創造された時点や宇宙の終焉に向かうことがあるのではないかと考える。

 

拙い表現ではあったが大まかな内容は最低限抑えられたと感じる、また読んで時間が経ったもののより正確に要約する、恣意的な解釈をしないことに努めた。

 

引用元 死生学 1 死生学とは何か 東京大学出版会 6章 生と死の時間